2017年04月
2017年04月26日
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『ア二バーサリーカクテル』はレシピでは見かけないが時折、作るカクテルです。
カップルで来店してくれた方が『結婚』しましたとか『結婚記念日』ですなどの時には、シャンパンやスパークリングワインで『ミモザ』にしたり色々と創ります。
4月は、入学や入社式とスポーツではゴルフ、野球、クレー射撃など公式戦がスタートしました。
今年はじめて公式戦に出場した射友の成績も気になります。
私も4月23日に銃砲店の主催の大会に京都の射撃場に行って来ました。
当日は暖かくなかり、桜吹雪の中を飛び出す標的を狙い撃つが、気力があるが、身体が動きません、ここ数年、春を迎えて経験するスタートのスコアは失中だらけです。

NBA大阪北支部長当時の挨拶文
今年4月NBA大阪北支部は50周年を迎えた。
日本バーテンダー協会は1929年5月に東京で設立して、大阪は1937年3月に最初の支部でもある関西支部が誕生した。
1957年、関西支部は本部に昇格、1955年協会は上層部の役員が対立して分裂した。
JBAから退会した会員達は11月ANBAを設立した。
その後、大阪北新地から始まったバー やクラブの 『ボトル キープ』が全国に広まったバーやクラブは『水割りブランデーウイスキー』時代に突入してべテランバーテンダー達がリタイアして行く状態になる。
協会も崩壊状態に陥いり1987年2つの協会は1本化した。
全国に出来た支部も歯抜状態になって大阪北支部も私の前の支部長が支部運営が行き詰まったと就任1年足らずで放り投げて、誰も次の支部長のなり手がなく、私に廻ってきたが支部再建なんて自信もないと断わるが、誰もなり手が無いと頼み込まれる。
当時私はクレー射撃の国体大阪の代表選手として連続出場していたので、そんな暇が無いと断わると、国体出場を優先してくれていいと引き受けされた。
年号も平成と変わりトム・クルーズの映画「COCKTAIL」がヒットすると『カクテル ブーム 』になってバーテンダー希望者も入会しだし、その年のクレー射撃も福岡国体から4連続の東四国国体まで出場出来た。
選手としての年齢も52歳はピークは過ぎたので選手をリタイアした。
私も昨年で75歳の節目の年を迎えNBAを退会した。
日本バーテンダー協会は1929年5月に東京で設立して、大阪は1937年3月に最初の支部でもある関西支部が誕生した。
1957年、関西支部は本部に昇格、1955年協会は上層部の役員が対立して分裂した。
JBAから退会した会員達は11月ANBAを設立した。
その後、大阪北新地から始まったバー やクラブの 『ボトル キープ』が全国に広まったバーやクラブは『水割りブランデーウイスキー』時代に突入してべテランバーテンダー達がリタイアして行く状態になる。
協会も崩壊状態に陥いり1987年2つの協会は1本化した。
全国に出来た支部も歯抜状態になって大阪北支部も私の前の支部長が支部運営が行き詰まったと就任1年足らずで放り投げて、誰も次の支部長のなり手がなく、私に廻ってきたが支部再建なんて自信もないと断わるが、誰もなり手が無いと頼み込まれる。
当時私はクレー射撃の国体大阪の代表選手として連続出場していたので、そんな暇が無いと断わると、国体出場を優先してくれていいと引き受けされた。
年号も平成と変わりトム・クルーズの映画「COCKTAIL」がヒットすると『カクテル ブーム 』になってバーテンダー希望者も入会しだし、その年のクレー射撃も福岡国体から4連続の東四国国体まで出場出来た。
選手としての年齢も52歳はピークは過ぎたので選手をリタイアした。
私も昨年で75歳の節目の年を迎えNBAを退会した。
2017年04月18日
先日、西宮市から『桜花』のブログを見たと、男性が来店してくれた。
その方は横浜出身の方で横浜本社の会社をリタイヤして数10年になり、その後奥さんの実家のある西宮に移った。
横浜時代はバー『パリ』の常連だったそうです。
その夜はバーパリが恋しく懐かしいのか『パリ』の話しをしてくれた。
先代の田尾多三郎は亡くなっていたので、田尾さんの二度目の奥さんの幸子さんは、田尾さんの弟子でもあるので奥さんの作る『マティー二』『桜花』カクテルは良く飲んだと楽しそうに話してくれた。
『Cherry blossom 』はカクテル本のレシピで作らずに店のオリジナルレシピで飲んだそうです。
この夜は『桜花』カクテルは当店風にアレンジしたのを楽しんでくれた。

田尾多三郎(1893~1971)

バーサンスーシー
田尾多三郎は1923年春 アルゼンチンから帰国途中、客船内で一人の日本人女性に多三郎が惚れたのか、独身でハンサムな多三郎が好かれたのか、その女性と船内で結婚します。
横浜に帰国して横浜の貿易会社を退職する。
1923年9月1日関東大震災が発生、その年の12月に伊勢佐木町に本格的バー『カフェ・ド・パリ 』を開店した。
店のチーフ バーテンダーに日本バーテンダー協会創立発起人15人の1人である高橋徳兵衛(1875~ 1933) が勤めた。高橋は長く東洋汽船の客船のキヤビン バーテンダーを勤め下船後バー『パリ』に勤めて横浜の最古の名門バーの草分けになる。
その後、1923年12月に東京 銀座に西川千代さんがバー『サンスーシ』を開店する。
千代さんは横浜フェリス女学院を卒業後、横浜の当時、横浜グランドホテルは外国人が多く利用した社交場になってその中でも2人の日本人女性が花形になって1人は川上 音次郎の妻の『貞奴』と千代さんが有名になり、その妹が多尾多三郎の最初の妻、船内で結婚した美人の女性でした。
この店は当時銀座で有名になって、後に『銀座の名バーテンダー』と有名になるバー『クール 』の古川緑郎(1916~2012)が、若き日にバーテンダー修行した店でした。
1990年日本バーテンダー協会発行のNBA 60周年記念誌より当時NBA 連合会顧問であった古川緑郎の『私の修行時代から いまを思う』からを引用します。
『昭和4年この世界に飛びこんだのですが、父は私を株屋 (証券会社)になれと言って父の知人を兜町に父と訪ねたが、幸いというかその人は出張中で お会いでなかった。もしその時に面接してたら現在こうしてバーテンダーになっていなかったかも知れない。兜町の帰りに父と銀座により『サンスーシー』という看板の店に入口に『少年ボーイ募集』という札が出ていた、この札を見ていなかったら現在の私はなかった。父がその札に目をとめてボーイとしていった私は入店すると月給は8円親方のチーフバーテンダーの高橋徳兵衛は月給100円、一流大学出の初任給が45円であった。』
この店は内装もデザインも田尾が妻の姉に協力した。バーテンダーも高橋徳兵衛を送り込んだ。
この時代、日本の初期のバーテンダーで『立派な名前を残したバーテンダー』は古川緑郎をはじめ自分から進んでバーテンダーを一生の仕事として選んだ人はいない。
『ミスターマティー二と呼ばれた男』HBAの創立者 今井 清(1924ー1999)は本多春吉(1897―1973)の弟子が富山出身で兵隊にとられて、その弟子は働き者で本多に気に入られ次も弟子は北陸の人間が良いとの一声で今井が石川から呼び寄せられた。
札幌の『バー山崎』の昨年、他界された『全国一番高齢者バーテンダー』であった山崎達郎(1920―2016 11/7)も画家志望だったのが戦後、軍隊時代の友人が東京會舘が人を募集しているといったらバーに配属されどんな仕事と分からず飛びこんだ。
その後、親方になった本多春吉に北海道にバーテンダー協会をつくてこいと札幌に行かされて東京生まれの山崎は『バー山崎 』を開店して札幌を好きになり生涯を終える。
日本の初期のバーテンダーで名前を残した名バーテンダーは誰も自分から進んでバーテンダーを生涯の職業として選んだ人はいない。
1923年9月1日関東大震災が発生、その年の12月に伊勢佐木町に本格的バー『カフェ・ド・パリ 』を開店した。
店のチーフ バーテンダーに日本バーテンダー協会創立発起人15人の1人である高橋徳兵衛(1875~ 1933) が勤めた。高橋は長く東洋汽船の客船のキヤビン バーテンダーを勤め下船後バー『パリ』に勤めて横浜の最古の名門バーの草分けになる。
その後、1923年12月に東京 銀座に西川千代さんがバー『サンスーシ』を開店する。
千代さんは横浜フェリス女学院を卒業後、横浜の当時、横浜グランドホテルは外国人が多く利用した社交場になってその中でも2人の日本人女性が花形になって1人は川上 音次郎の妻の『貞奴』と千代さんが有名になり、その妹が多尾多三郎の最初の妻、船内で結婚した美人の女性でした。
この店は当時銀座で有名になって、後に『銀座の名バーテンダー』と有名になるバー『クール 』の古川緑郎(1916~2012)が、若き日にバーテンダー修行した店でした。
1990年日本バーテンダー協会発行のNBA 60周年記念誌より当時NBA 連合会顧問であった古川緑郎の『私の修行時代から いまを思う』からを引用します。
『昭和4年この世界に飛びこんだのですが、父は私を株屋 (証券会社)になれと言って父の知人を兜町に父と訪ねたが、幸いというかその人は出張中で お会いでなかった。もしその時に面接してたら現在こうしてバーテンダーになっていなかったかも知れない。兜町の帰りに父と銀座により『サンスーシー』という看板の店に入口に『少年ボーイ募集』という札が出ていた、この札を見ていなかったら現在の私はなかった。父がその札に目をとめてボーイとしていった私は入店すると月給は8円親方のチーフバーテンダーの高橋徳兵衛は月給100円、一流大学出の初任給が45円であった。』
この店は内装もデザインも田尾が妻の姉に協力した。バーテンダーも高橋徳兵衛を送り込んだ。
この時代、日本の初期のバーテンダーで『立派な名前を残したバーテンダー』は古川緑郎をはじめ自分から進んでバーテンダーを一生の仕事として選んだ人はいない。
『ミスターマティー二と呼ばれた男』HBAの創立者 今井 清(1924ー1999)は本多春吉(1897―1973)の弟子が富山出身で兵隊にとられて、その弟子は働き者で本多に気に入られ次も弟子は北陸の人間が良いとの一声で今井が石川から呼び寄せられた。
札幌の『バー山崎』の昨年、他界された『全国一番高齢者バーテンダー』であった山崎達郎(1920―2016 11/7)も画家志望だったのが戦後、軍隊時代の友人が東京會舘が人を募集しているといったらバーに配属されどんな仕事と分からず飛びこんだ。
その後、親方になった本多春吉に北海道にバーテンダー協会をつくてこいと札幌に行かされて東京生まれの山崎は『バー山崎 』を開店して札幌を好きになり生涯を終える。
日本の初期のバーテンダーで名前を残した名バーテンダーは誰も自分から進んでバーテンダーを生涯の職業として選んだ人はいない。
2017年04月12日
先週、関西の新聞では 神戸 大阪 京都も紙面は桜の名所は満開の花見客で賑わう写真ばかりでした。
私も土曜日に北大阪の箕面にある、桜並木を楽しみに行ってきた。
この町は町名にも『桜』『桜井』『桜ケ丘』と昔から桜を植樹された場所では有名です。
当日、車の中で見学できる『桜のトンネル』をノロノロと運転しながら楽しみました。
今週、この季節だけしか当店では注文されなくなった『cherry blossomカクテル』を花冷えする今夜に今年初めての注文されて作りました。

cherry blossom カクテル

カクテルの創作者「田尾多三郎」
このカクテルは明治生まれの田尾多三郎により創作された。
カクテルbookの名著で1930年ロンドンで発行された『savoy cocktail book』に現在もレシピは載っている。今では、国内外のカクテル本では有名です。
田尾は大正時代、貿易会社の南米アルゼンチン支社長として活躍し帰国後、横浜で1923年関東大震災の数ヶ月後に伊勢佐木町でカクテルバー『PARIS』を開店この名門バーは、1945年5月に空襲で焼失する。
戦後は野毛山に移転して1963年常盤町にオープン。
横浜を代表する最古のバーとして有名になるが1971年に田尾氏は亡くなると奥さんの幸子さんに守られて、その後、奥さんも他界すると一族の方に引き継がれた。
田尾は1952年4月24日JBA神奈川支部設立の初代支部長に就任。
その数年後にJBA は分裂して1955年11月15日 、日本に2ツ目の協会ANBAが設立して当日の出席者の中に田尾多三郎の名前がある。
横浜グランドホテル時代の明治生まれの本多春吉たちと 交流があったと思われる本多春吉の師匠の浜田晶吾は出席はしてない。






