2016年09月
2016年09月26日
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19日は「敬老の日」でした。
現在一般的に高齢者は65歳以上の人とされ、長壽社会の今、65歳の人を高齢者と呼ぶには違和感を覚える人もいると思います。
バーテンダー界でも山形県の「雪国カクテル」の創作者、井山計一さん札幌の山崎達郎さん、たちは90歳を過ぎても第一線でカウンターに立ち続けて「生涯現役」の元気さには尊敬します。
私も毎年この日を迎える「敬老人」の一人としてバーテンダーとしての仕事の「終活」を考えます。
50年もカウンターに立ち続けることが出来たこと、と今年でNBAに入会して50年の節目として4月に退会した。後は気になることは、家と店に「酒類やCOCKTAIL BOOK」を溢れさせて、自分でも良く集めたこと、と感心している。いずれ書籍も処分しなければと思っていると、先月、知人と一緒に来店してくれたS君がNBA関西本部の「トツプ」に就任した祝いとして木村與三男さんの「カクテール全書」初版本と射撃を始めたいと云つてたので銃関係の本をあげると喜ばれた。
店はまだ「敬老人」の方が多く来店してくれて「君がリタイアしたら敬老人バーテンダーが少なくて行くところが無くなるのでまだ頑張れ」と言われて、元気なあいだは「敬老人」どうしで頑張てみようと、思っています。
元気な「敬老人」の方一度当店の扉を押してください、歓迎致します。

初期のCOCKTAIL BOOK
百瀬 晋のカクテルブックは1927年10月発行し、秋穂 敬子のカクテルブックは1930年7月発行された。
日本で最初に女性が書いた、カクテルブックだと思います。
彼女は東京の「クッキング女学校」の先生でした。
明治時代には、日本では発行されたカクテルブックは見当たりません。
大正の後期、1924年に3冊発行されたカクテルブックが日本最初のCOCKTAIL BOOKだと思います。
秋山 徳蔵は「天皇の料理番」として有名なシェフでした。
1910年フランスに渡り2年後に「カフェ・ド・パリ」でフレンチを学んでいます。
25歳で帰国しました。
1929年にも2冊目を出しています。
前田米吉の人物像はよくわかりません。
大阪の中田 政三は「フランス屋」の初代主人で道頓堀で開業して常連に谷崎潤一郎や芥川龍之介が、利用しています。
その後1929年「日本バーテンダー協会」が東京神田で発会します。
1年半の年月をかけて内外65冊のカクテルブックを採択して理事たちの研究会で決定して1936年3月に「大日本基準コクテールブツク」が発行された。
JBA会員用のコクテールブックとして高く評価された。

木村與三男さんの「カクテール全書」
写真は改訂版のものです。
この本のことを2008年「日本ソムリエ協会」会長だった小飼ー至さんの「生涯ソムリエ」の発行された本から引用します。
小飼元会長の「僕の最初の師匠は横浜ニューグランド ホテルで腕をならした有名なバーテンダー」で小飼さんの酒修業の最初の師匠だつたそうです。
「そんな折り、横浜の書店で木村與三男さんが著した、分厚いカクテルブックを見付けました。安サラリーの身には、痛かったですが、買い求め、その本にのつている基本のカクテルをマスターしていきました。その色の美しさは今でも鮮明に覚えています」
此の本は1962年発行のカクテルブツクでは世界では最初にカクテルをビジュアル化して、カラー写真で出版した本でした。
以後内外で出版されるカクテルブツクはカラー写真が普通になった。当時は小飼さんのサラリーが1万7000円の頃に「カクテール全書」は3000円でした。また同じ頃に「SAVOY COCKTAIL BOOK」を4000円で手に入れている。
2016年09月15日
先日、京都から、ご夫婦で来店してくれた方が「今年の京都の夏は暑かったと」話され「いや、大阪も負けてませんよ、8月は猛暑日(35度以上)が23日もあったそう」との話しから、奥さんが「秋を感じるカクテルがあると、飲んでみたい」とのオーダーをされた。
主人が「jazzの名曲にautumn in new yorkやseptember songがあるね」との話しで「それならseptember mornカクテルがあります」と作りました。
主人は京都の「五山の送り火」を感じるカクテルの色やねと表現してました。
SEPTEMBER MORN カクテル
BACARDI カクテルをマイルドした感じのティストで気にいつてくれたようでした。
秋を感じてくれたかはわかりませんでしたがカクテルの名前は「9月の朝」カクテルでした。
秋を感じてくれたかはわかりませんでしたがカクテルの名前は「9月の朝」カクテルでした。
2016年09月06日
今年、国体開催地の岩手県は台風10号で甚大な被害に見舞われ、各競技を迎える、市町村や選手に出場決定した方も心配のことと思います。
クレー射撃の選手も、此の秋に花巻市の外れ、大森山のふもとに花巻市クレー射撃場は当時、東北では有数の射撃場として花巻市が1970年の第1回目のクレー射撃国体開催に完成さし、市民の中に一般には縁の無いクレー射撃に市の予算の中から莫大な資金を使って反発があったそうです。
こうして地方都市では運営の大変な時代、トラップ2面、スキート2面の射撃場を45年後の現在を迎えることは岩手県クレー射撃協会の尽力だと思います。選手の皆さん国体頑張てください。
此の始まりは、1970年岩手国体のクレー射撃出場する選手の中に、此の年7月奈良県、天理市で開催した「装弾メーカー」の決勝大会に出場した射手は入賞者に豪華賞品やテレビが与えられたと「アマチュア違反」であると岩手国体クレー射撃会場の前日に「47県の選手」の全員を日クレ役員が調べると40人の違反と6県の処分を発表すると、会場は大騒動になった。
他県でも豪華賞品をかけた大会に出場した者が続出。
日本体育協会はクレー射撃競技を「オープン競技」にすると発表する。
花巻市長は莫大な費用を支出して、市民感情からも許せないと花巻市の他の競技のバレーボールや卓球も返上すると語ると、体協は驚いて「41県の出場で正式種目」で決行した。
その後はクレー射撃協会は分裂して日本に「全日本射撃協会」ができて2団体になる。
オリンピックもワールドカップも体協から除名されて、選手は試合に出場出来なく、7年後の1977年の青森国体からやつと参加することが出来だした。
他県でも豪華賞品をかけた大会に出場した者が続出。
日本体育協会はクレー射撃競技を「オープン競技」にすると発表する。
花巻市長は莫大な費用を支出して、市民感情からも許せないと花巻市の他の競技のバレーボールや卓球も返上すると語ると、体協は驚いて「41県の出場で正式種目」で決行した。
その後はクレー射撃協会は分裂して日本に「全日本射撃協会」ができて2団体になる。
オリンピックもワールドカップも体協から除名されて、選手は試合に出場出来なく、7年後の1977年の青森国体からやつと参加することが出来だした。
第1回兵庫国体より2度目の総合優勝の私たちの写真です。
当時はスキートは大阪、トラップは神奈川が毎回上位で此の年も大阪がスキートがトツプでトラップも神奈川で2位に大阪がはいり、総合優勝が出来た。
その後も、大阪は「愛知国体」「福島国体」「広島国体」と3連続の「総合優勝」を果たした。
当時はスキートは大阪、トラップは神奈川が毎回上位で此の年も大阪がスキートがトツプでトラップも神奈川で2位に大阪がはいり、総合優勝が出来た。
その後も、大阪は「愛知国体」「福島国体」「広島国体」と3連続の「総合優勝」を果たした。
写真の監督の手にした、大会会長トロフィー、秋のクレー射撃出場の選手の皆さん、狙ってください。








