2012年06月
2012年06月25日
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日本に最初に輸入されたモルトウイスキーは大阪の食品商社、日食から「GLEN FIDDICH」が1960年中頃輸入された。
2番目は数年後に「THE GLENLIVET」がサントリーにより輸入される。
サントリーはこの名門蒸留所が気に入ったようでロンドンの証券市場から当時の発行株式の11%の86万4642株を買付けて大株主になる。
この時代ボトルのラベルには、グレンフィディクが“STRAIGHT MALT”と書かれて、グレンリヴェットは“UNBLENDED ALL MALT”と記され、“SINGLE MALT”には70年代の中頃に統一された。
それまでは“RARE MALT”、“RARE ALL MALT”、“PURE MALT”、“PEATED MALT”、“PURE SINGLE MALT”とかいろいろでした。
この当時スペイサイドを歩くと右も左も蒸留所のキルンから煙が立ち上り、蒸留所で試飲した”ニューポット“はどれも個性があり今では遠くすぎた蒸留所も時代の変化に流されて寂しく感じます・・・。

GLEN FIDDICH(左) BALVENIE(右)
左は日本に最初に輸入されたモルトウイスキー、右はバルヴェニー。1970年の発売当初は三角瓶を採用された。
スコットランドの蒸留所でモルトウイスキーを自社で瓶詰めされているのはこの当時、グレンフィディクだけ。
2本のSILVER JUBILEE
今年のエリザベス女王在位60周年の記念祭をTVニュースで見ました。1952年女王は即位して25年記念にボトリングした記念ボトルです。1952年蒸留、1977年瓶詰めされた25年ものです。
GLEN FIDDICHとGLEN LIVETの2社だけが出しました。日本に最初に本格的に輸入された『GLEN FIDDICH』と2番目に輸入された『THE GLEN LIVET』の話でした。
2012年06月19日
横浜が開港され居留地ができ、本格的なホテルがフランス人の経営で横浜グランドホテルが、営業をはじめた。
1890年サンフランシスコのホテルマンであったドイツ人のエピンゲルがグランドホテルに迎えられた。
彼の指導で有名バーテンダーが育った。
エピンゲルは横浜から「バンブー」カクテルと「ミリオンダラー」を世界の港に発信したことで名前が知られています。
横浜出身の浜田晶吾は語学を習得する為に1912年、地下1階のメインバーに見習いバーテンダーとして入った。
後年、エピンゲルの創作と伝えられている。ミリオンダラーをアレンジして銀座の「ライオン」よりブレイクしたことは有名です。
1916年頃に本多春吉が浜田の弟子になる見習いバーテンダーとして入ってきます。秋田清六は1917年に帝国ホテルのバーテンダーから1階のラウンジバーに移ってきます。
浜田は1924年頃ホテル精養軒の経営するカフェライオンに迎えられる。本多はグランドホテルから帝国ホテルのバーに移り1927年東京会館のチーフバーテンダーに就任します。
本多は後に「ミスターマティーニ」とよばれた15才の今井清を石川の羽咋から呼び寄せたりもしました。
本多はJBA4代目会長に就任して東京会館で多くのバーテンダーを育成してANBAを設立します。
今井清はHBGを創設し現在のHBAに発展します。
浜田はJBA6代目会長に就任して、後の日本バーテンダースクールの校長になり多くのバーテンダーを育てます。
この時代カリスマバーテンダーと呼ばれた人たちは、自分からバーテンダーを志望していない人々がカリスマバーテンダーになり、立派に名前を残しています。

東京会館ジンフィズ
1945年東京会館は米軍の将校クラブとして接収されて、米軍人に流行ったミルク入りのジンフィズがあります。
有名になりました・・・。今でも東京会館や出身者の店で作られています。
テネシーワルツ
JBA7代目会長、長谷川幸保(1908~1968)に雑誌で「音楽とカクテル」という特集を組まれ、長谷川に創作カクテルの依頼が来る。1948年「テネシーワルツ」がヒットしてそのネーミングから作った甘いロングドリンクスがブレイクしました。
曲も日本で1952年日本語ヴァージョンが江利チエミにより歌われ20万枚のヒット曲になる。
2012年06月11日
カクテルの中で飲み手と作り手が、カウンターを挟んで、これほど論争される飲み物を他に見たことも聞いたこともない。
「マティーニ」が誕生してから、飲み方から、作り方まで論議が尽きない。
ただの“ジン”と“ベルモット”で作るシンプルなマティーニは昭和の中頃からドライ化が進みピークを終えた。
この時代を育ったバーテンダーは「マティーニ フリーク」からの辛口の洗礼を何度も経験し、痛みを感じて磨かれた。
料理人もバーテンダーも修業中は師匠の仕事やレシピをトレースしながら成長していく・・・。
長い経験を積んで理解できたのは、この小さいカクテルグラスの中に技術も上手、下手もその日のコンディションや作り手のキャラクターまでもがグラスの中に材料と一緒に溶け込んでゆく。
10人が作れば、10人のオリジナルになってしまう。飲み手と作り手がうまくアジャストして喜んでもらうのがベストだが・・・。

・マティーニ誕生の碑
チャーチルマティーニやボンドマティーニで有名なカクテルはイギリス生まれと思っている人は多いが、カリフォルニア州マーティネズ市で1874年バーテンダーJULIO RICHELIEU(ジュリオリシェリュ)の店で誕生してその後サンフランシスコの名物カクテルになったと「マティーニ誕生の碑」が1992年4月に建立されている。

・ゴールドラッシュ時代の別の説
1849年ある金鉱掘りが「ゴールデンナゲット」を持ってサンフランシスコに帰る途中、マーティネズ市に寄ってで始まる・・。
アメリカ以外で「マティーニ誕生」を“ウリ”にしているホテルや石碑まで建立している国はない。

・至上のマティーニを求めて
ブライアン・フリーマントルは取材旅行の傍ら、至上のマティーニを探し続けた。
ローマ、ロンドン、パリ、シンガポール、N.Yなどなど・・・。
ローマの「ハリーズ・バー」ではギブソンを出され、ロンドンの「サボイ・ホテル」ではベルモットが多すぎた。
パリの「ハリーズ・バー」ではグラスが十分に冷えてなく、シンガポールの「ラッフルズ」では甘いオレンジの味がした。どれも気に入らず、ニューヨークに決めた。
「プラザ」はダイヤモンドのように味が固い「アルゴンキン」は味は申し分ないがベルモットがひときわ多い。
やはり自分で気に入る作り方こそが“至上のマティーニ”になる。
そうならなかったら、何度も繰り返し「トライ」する。
ブライアン・フリーマントルはなぜ「ウォルドーファストリア」と「エセックスハウス」に行かなかったのだろう。
私は、ここのマティーニが「プラザ」のようにオレンジビターズを使わないので気に入っている。








